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李氏朝鮮が対馬の支配権を確立していれば対馬は歴史的にウリナラ領土だったのに!
たびたび出てくる「対馬は歴史的にウリナラ領土!」という主張の一環↓
■李氏朝鮮の対馬征伐は「失敗した戦争」  聯合ニュース

 「1419年の対馬島(テマド)征伐は、軍事戦略面から見て、失敗した戦争だった。」国防部の戦史編纂研究所(所長:安ビョンハン)は17日、古代から李氏朝鮮時代までの軍事戦略を分析した資料3冊を発刊したが、そのうちの「朝鮮時代の軍事戦略」編では、対馬征伐(訳注:日本側の呼称は「応永の外寇」)の過程を詳細に扱っている。
 この本によれば、対馬征伐は李氏朝鮮の軍事力が投入された最初の海外遠征だった。攻勢的な奇襲戦略で局地戦形態の小規模戦争方式を通じて、当時の対馬島主だった都都雄瓦(訳注:日本の史料では「都都熊丸」。後の宗貞盛)を降伏させ、政治・外交的には成功的な作戦だった.
 しかし軍事的側面から見ると作戦は失敗であり、対馬に対する直接支配体制を確立できなかったなど、現代的軍事戦略面では成功できなかった戦争だったという。
 李氏朝鮮は1419年6月、三軍都体察使(征伐軍総司令官)李従茂の指揮の下、艦船227隻と兵力17,285人からなる征討軍を編成し、対馬征伐に出た。巨済島南端から10隻の偵察船団を先頭に出発した征討軍は、3日で対馬の浅茅湾沖に到着した。当時、対馬の倭寇は朝鮮の偵察船団を倭寇船団と間違えて歓迎の宴の準備しており、征討軍の本隊が近付くと慌てて山岳地域で退避した。
 最初の小規模上陸作戦では賊船129隻を捕えて家屋1939軒を燃やし、倭寇114人を射殺す戦果をあげるとともに、倭寇に連行されていた中国人131人を救出する成果をおさめた。しかし本格的な上陸作戦を敢行した際は、指揮官らの戦術知識不足や上陸戦の経験不足で100人余りの我軍の死傷者を出すなど、拙劣な戦闘だった。
 地上戦に失敗した李氏朝鮮軍は海上封鎖で倭寇たちの投降を期待したが、征伐作戦の開始から20日にもならないうちに台風を心配して引き返さざるをえなかった。
 同年7月、李朝の朝廷は、対馬攻撃軍と倭寇要撃軍の2つの部隊からなる司令部を編成して第二次征伐を命じたが、征討軍の士気低下と軍船の破損、気候条件などを考慮して出兵を延期すべきとの上訴のため、決行することはできなかった。
 しかし、兵曹判書・趙末生名義の書簡を対馬島主に送り、朝鮮に「君臣の礼」で仕えれば武力行使を中断することがありうると通知ししたのに続き、9月と10月には軍船整備の指示を各島に下達して対馬島主に圧力を加えた。
 李氏朝鮮の圧力の結果、対馬島主は李氏朝鮮に人を送り、君臣の礼をとるという内容の降伏文書をもたらした。
 「対馬は土地が不毛で生活が苦しい。島民を巨済島などの島に住まわせて下さり、対馬を朝鮮の領土の州郡と思って州郡の名称と印信(確認書)を頂戴できましたら、私どもは適切に臣下の礼をもって命令に従います。」 世宗20年の1420年7月、李氏朝鮮は対馬島主に「宗氏 都都雄瓦」という印信を授け、対馬島主としての地位を認めてやった。対馬の戦略的価値と潜在的経済価値を認識することができずに、対馬島主に自治権を認めてやるという愚を犯したのだ。
 李氏朝鮮が当時、対馬の戦略的価値を理解して官吏を派遣して直接支配体制を確立していたら、対馬は朝鮮の領土になったに違いなく、後日の壬辰倭乱(訳注:秀吉の朝鮮出兵のこと)も予防できたはずだ、と著者は指摘している。


豊臣秀吉が朝鮮出兵に成功して、当初の計画通り北京を支配すれば、中国大陸は日本の領土~
十字軍の遠征が成功していれば、エルサレムはキリスト教徒だけのもの~
ワーテルローの戦いでナポレオンが勝っていれば、ナポレオン完全復活~

ウリナラ歴史観といえば「~していれば―だった」
自分達に有利な条件を設定しておけば、お好みの結果が得られるなんて当たり前だけど。当たり前という以前の問題として、そういう歴史解釈しはじめたら、無限の通りが存在するから、その時点で学問としておしまい。

第一、その後に再び奪取される可能性とか考えないのか?

もっとも、今回の「~していれば―だった」というのは、微妙に違いますけどね。

過去にも「対馬の日」が決定した時だかに言いましたが、日本ではこれを「応永の外寇」といいますが、当初奇襲作戦で朝鮮側が優勢だったんですが(このとき、この記事が主張するように確かに一時的な負けを認めたらしい)、軍備を整えて反撃されて朝鮮側は敗走。最終的に和平条件が提示されて朝鮮側からも官吏を送ってこれを認める。

韓国人は、どうも、その前半部の「当初負けていた」というところまでしか史実に無いようで、完全な李氏朝鮮側の敗北だったということを知らない。知らないから、軍事的には成功だったが、政治的には失敗だったとかわけのわからい結論が出てくる。軍事的にも失敗だったんだよ!!
(注:記事中には「政治的に成功だったが、軍事的には失敗だった。」と書いてありますが、「自治権を認めたらから失敗した」って政治的な理由ですよね?逆に戦闘では勝っていたとか書いてあるって事は、軍事的には成功だったってことじゃないの? 韓国では政治と軍事の定義が違うのか?)


まあ、ともかく、日本では応永の外寇を教えてない。教えてないってことは、逆に言えば大した内容の歴史事象ではないということの証明であり、本当に例え一時期でも現在の領土が、外国勢力によって領土が確立されていたのであれば、絶対、教科書に載ります。近代史のごたごたがあるわけでもあるまいに。
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テーマ:特定アジア - ジャンル:政治・経済

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