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ベヒモスがいてリヴァイアサンがいる(そしてジズ)
■【コラム】ろうそくデモと『リバイアサン』(上)
■【コラム】ろうそくデモと『リバイアサン』(下)  朝鮮日報

 韓国で米国産牛肉の輸入に反対するろうそくデモの勢いが収まりつつあった昨年9月中旬ごろ、親しい間柄の教授から電話があった。「李記者は学校で哲学を学んだから、トマス・ホッブズの『リバイアサン』という本を読んだことがありますよね。少し前に翻訳書が出たので読んでみたのですが、完全に『ろうそく批判書』ですね」と言うのだった。
 さらに教授は「まるでホッブズが韓国のろうそくデモを見て、それをきっかけに書いたような記述が数多く出てくるんですよ。ろうそくが韓国社会に投げかけた意味を改めて振り返るためにも、『リバイアサン』を必ず読んでください」と続けた。
 哲学史や思想史で要約された内容はずいぶん目にしたが、『リバイアサン』をしっかりと読んだことがなかった記者は、さっそく2冊から成る『リバイアサン』の翻訳本を購入し、読み始めた。思想史や哲学概論書を見ると、「万人に対する万人の闘争」が起きる自然状態を克服するため、人間が国家という怪物(リバイアサン)をつくり出した、というのがこの本の骨子として要約されている。
 教授と電話で話した直後は、「ろうそくを『万人に対する万人の闘争』と解釈し得る分析がその本に集約されているのだろう」という程度に考えていた。
 しかし、1651年に書かれたというこの本を読みながら、しきりに本を伏せ、呼吸を整えざるを得なかった。1651年は韓国の孝宗2年に当たる。盛んに北伐を行おうと腐心していた時期だ。そんな虚勢を張らなければ、清が李氏朝鮮に侵入した丙子胡乱(1636-37年)で崩壊寸前の国家の基本を支えることが難しかったからだ。
 ところで、357年前のホッブズは驚くべきことに今起きていることをすでに語っていた。彼は良心という言葉が人々によって堕落してしまったとして、「自分の意見に頑固に執着するか、不合理な意見を執拗(しつよう)に主張しようとするとき、自身の意見に『良心』という恐れ多い名前が付く」と嘆いた。
 人々がそうする理由についての分析にはギョっとさせられた。「それは他人の意見を変えようとしたり、自分の意見に反対すれば違法行為であるかのように思わせるためのものだ。せいぜい自分はそう考えているという程度にすぎないことを、(良心という言葉を用いることで)まるで真理を知っているかのごとく主張する」という指摘だった。
 ろうそくは良心の象徴だと言わなかっただろうか。
 昨年のろうそくデモのもう一つの要素は群衆だ。左派が今でも「参加型民主主義の芽」だと称賛してやまないあの群衆。ホッブズは「自身がお告げを受けたと信じる人々のことを考えてみよう。そんな情念にとらわれ、とても奇怪な行動を取る人がたった一人の場合、彼のおろかな行動の結果は目に付かないこともあり得る」と書いている。
 問題は昨年われわれがこの目ではっきり見たように、彼らが塊を成すときだ。ホッブズは「そんな人々が多数集まり、共謀した場合には、群衆の激怒が目に見える形で表れる。われわれが親友たちに向かって叫び声を上げ、殴ったり、石を投げることよりも明らかな狂気の証拠はどこにあろうか」とした上で、群衆の後ろに隠れようとする匿名の個人についても、「万一これが群衆の狂気だというならば、群衆を成す個々人にも狂気が存在すると言わざるを得ない」と指摘した。
 この本には昨年から今年にかけての韓国社会を読み解くのに必要な記述やテーマが、挙げればきりがないほど盛り込まれている。それはともすれば、近代国家の水準において、われわれがまだ遅れているということを意味している。『リバイアサン』という本は大きく「人間について」と「コモンウェルス(国家)について」という二つの記述に分かれている。
 「人間について」は一言で表現すれば、国家を形成しようとする場合、どんな人間であるべきかを扱っている。そこには虚像に頼り、独善を主張する、判断力が欠如した人間に対する容赦ない批判が出てくる。良心の名で包まれた独善や群衆の狂気の問題もそんな脈絡から取り上げられている。
 つまり、どういうことか。
 昨年韓国が経験した「狂乱の夏の夜」は国家を論じる以前の段階に起こり得る情けない水準の話であり、国家をさらに成熟させる新たな次元の話ではないということだ。それゆえさらに恥ずかしさを感じる。


この記事自体も面白いし、これを紹介した2chの記事
■【朝鮮日報コラム】ろうそくデモと『リバイアサン』 「まるでホッブズが韓国のろうそくデモを見て書いたようだ」 2ch東亜板
のレスも中々面白いと思う。

ただ、(多少、記事中にも言及されているけど)これはロウソクデモに限らず、韓国全般の事象に当てはまると考える。実際の論理よりも、その外にある曖昧な概念を用いて相手の発言権その物を奪おうとする行為。典型例として、歴史問題で、日本の意見に反論するのではなく、「道徳性」という言葉を用いて、「発言する資格その物が無い日本」の意見をまともに扱う必要が無い、というような態度を取るわけだ。まあ、実際には、市民革命とか民主主義の発展とか抜きに、韓国の場合には儒教的観念からくる道徳性もあるんだろうけど、あるからこそ、余計に酷くなってるのかもしれない。

まあ、程度の問題こそあれ、この問題は日本でもある。最近だと、スレでも指摘されているように鳩山兄が、在日参政権に愛がどうのこうのと言ってたわけだし。反対方向だと、否定しよう物なら、それは売国奴的な考えだと(私達の考えは愛国心的だと)、左翼認定して発言権を奪ってくる人たちがいるわけで(まあ、良心は、概念的には愛国心より人権とか平和とかの方に結びつき易いから、右より左の方が顕著に現れるのだろうけど)。

日本だと、ホッブズは、せいぜいルソーの社会契約説の踏み台程度、良くてリバイアサンを三権(立法・行政・司法)の権化のような見立てをして終わるんで(「万人に対する万人の闘争」は、アナーキーな状態をイメージさせるだけで、市民運動の様な面とは結び付けられない)今回の記事はそういう面でも新鮮だったなと(人文系で大学行けばわからんが)。

ベヒモスがいて、何故、ホッブズはリヴァイアサン(レヴィアタン)を持ち出したのか納得したのは良い思い出。
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