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夕闇のトゼン草
多岐な話題に雑多に個人的な意見
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ニセ科学に関する私見1
ニセ科学が流行る一番の理由は「何故そうなのか?」と考えないこと。まあ、当たり前の話で、何故そうなのかと考えないから、ちょっと考えれば怪しいとわかることを信じてしまう。このプロセスは何ら珍しいことは言うまでもなく、教祖の教えだろうが、指導者の言葉だろうが、マスメディアの情報だろうが、社会に溢れている。だから、まあ、ことさらに特殊な例というわけじゃあない。

では「何故そうなのか?」と言う思考を放棄してそのような情報を信じる輩は、健全な思考を放棄した馬鹿者、愚か者か?と断じるかといえば、そんな人間は自分を含め、今の地球上に60億人以上はいるだろう。つまり、これは人間としてごくごく自然の行為である。

これまた当たり前の話で、一々「何故そうなのか?」なんて考えることは不毛である。
普通は「何で電線は高圧なのか?」なんて考えないし、「ステンレスは何故錆びないのか?」と考察しない。まして、リンゴが落ちるのを見て、それを疑問に持ち「引っ張られているんだ!」と着想する奴なんてまずいない。一々、目に入る全ての事象の、その意味を考察していたら何もできないし、そんな人間がいたら、まず社会不適合者として、最悪の場合は精神病院で一生を終える。


科学者や科学的なモノに携わる者にとっては科学とは真理やそれを応用した技術だが、大衆にとって科学とは生活を便利にするための現象に過ぎない。大衆にとって重要なのは望む結果であって、それを支える過程に過ぎない科学的意味は気にされない。ゆえに結果が手に入りさえすれば「何故そうなのか?」なんて考える意味は無い上に、単なる時間の無駄となるわけだ。

しかし、結果のみが評価され、過程が一切考慮されないとすれば、そもそも科学と言う裏付けすら必要とされないこととなり、ニセ科学は存在しないはずである。でも、そんなことはない。

人は説明のつかないことに必ず理由付けや意味付けをしようとする。例えば、昔はおかしなことや不思議なことがあれば、神の所業やお化けの仕業、祟りで片付いた。例えばにわか雨が振るのは狐の嫁入り、いつの間にか切り傷があるのはかまいたちの仕業、不幸なことが続けば神の与えた試練。民俗学的に言うなら、不可解な現象に理由付け、意味付けをすることによって「未知」という恐れを希釈する(ツポビラウスキー症候群!)。

現代においてもそうで、人はある物事や現象に対して完全無防備で信頼しているわけではなく、必ず何か信頼するための指標を持っている。それが科学である。しかし、最初に述べたように一々検証することは不毛である。だから、本来考えの前提でしかない「科学"的"」であれば、それ以上踏み込んで検証しないで認めてしまう。指標ではなく権威と置き換えてもいい。正しさを担保する手段として権威を利用する。教祖でも指導者でも新聞でも、そして科学でも、それに一定の権威を認めているから、「何故そうなのか?」を考えなくても恐れることなく受け入れることができる。

無論、本来、是非の判定にとっては受動的に過ぎないはずの「権威」が、能動的に悪用される恐れがあるなんて一々言うまでのことじゃない。自身の主張の(見かけの)正当性を高めるための権威付けに「科学」が使われるような事態へと発展することもあるわけで(ソーカル事件が好例)、まあ、それがニセ科学が発生する理由だと考える。最初に言ったように何ら珍しいプロセスじゃない、ごくごく当たり前の話だが。

そもそも科学ってのは科学的手法と言う適切なプロセスを経た事柄を指すわけで、そのプロセスを経ない時点でそれは科学じゃない。回り道して色々小難しいこと考えてみたけど、結局これに帰結するのは何とも。

権威の利用なり、悪用なり、科学の定義なり、何なり、結局、ニセ科学ってどこから切っても、ごくごく当たり前のこと。



科学とは、大衆にとって説明その物ではなく、説明付けの一指標に過ぎない物である。指標だから、その成否の判定は向きさえ整っていれば良く、それが神や魔法と言った方向を指しているかどうかしか判定しない。向きが神や魔法だったら、野蛮だ土人だと馬鹿にし、科学だったら文明だ理知だと尊ぶ。
神や魔法が信憑性の指標となっていた時代ならば、魔法や妖精が原因とすれば納得し、それがどんな意味があるのかわからなくても、雨が降れば雨乞いという過程は正しかったということになる。現代においては科学を指していたら信じる。それが電気や機械で動いていると知れば納得し、それがどんな意味があるのかわからなくても、車が動けばエンジンという過程は正しかったということになる。

そういう意味では人の認識、思考法の根底は、神を信じていた時代から何も変わっていない。俗に科学の信仰と揶揄されるのと同じこと。ゆえにニセ科学が根絶されることは無いだろうな。

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